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エッセイ〜月刊「百味」にて連載中〜

香りの記憶 [月刊百味 : 2007年12月号掲載]

香りから記憶が甦る―。そんな経験はありませんか?私はパリの空港に降り立った時、どの季節でもいつも感じる香りがあります。しばらく滞在していると何も感じなくなるのですが、日本に戻ってきてスーツケースをあけると・・・不思議な事に、またあのパリの空港に降り立ったときと同じ香りを感じ、その瞬間、パリでの日々が甦ってくるのです。
 ヨーロッパでは11月の終わりになると、街中がクリスマスの雰囲気に包まれます。ドイツでは、広場のいたるところにかわいい小屋がたくさん並んだクリスマス市が出て、ランプや蝋燭などが売られていたり、あつあつのソーセージやグリューヴァインというフルーツたっぷりのホットワインが売られていたりと、毎日がお祭りのようです。
 パリでは、シャンゼリゼ大通りのイルミネーションが一気に灯され、クリスマスを迎える準備に包まれます。その熱気で寒さも和らぐようでした。クリスマスはキリストの誕生という聖なる日。家族全員で静かに過ごし、夜はミサへ出かける、日本のお正月のような感じです。反対に大晦日から新年にかけては友人同士で夜通し大騒ぎ、日本とは過ごし方がまるきり逆なのです。
 私はある香りを感じると、パリの12月を必ず想い出します。
 パリのホテル・リッツで料理修行をしていたクリスマス・イブの日。レストランでは、特別なクリスマス・メニューが用意されます。朝から飾り付けや準備で全スタッフが大忙しで動き回っている中、シェフが持ってきたもの、それがトリュフでした。籠いっぱいの黒トリュフに、拳2個分はあろうかと思うくらいの大きな白トリュフ。私はディナーの直前に、そのトリュフをスライスする任務を与えられたのでした。
 「森のダイヤモンド」と呼ばれる白トリュフは大変高価なものですが、初めて見るそのごつごつした不細工な白トリュフが、最高級イタリアのアルバ産のもので、一塊が3000ユーロ(42万円!)もすると聞き、持っていた手が震えました。「なんでこんな石みたいなものが・・・」と驚いていると、シェフは笑いながらそれを少し削り、「匂いを嗅いでみなさい」と言います。恐る恐る嗅いでみると・・・なんだろう、この香りは!今まで体験したことのない強烈な、しかし本能に訴えかけてくるような魅力ある香りでした。シェフは「トリュフは理性をなくしてしまうような官能的な香り。興奮作用のある成分が本当に含まれているんだよ、男女の間には欠かせないものだね!」と、フランス人らしくニヤリと笑っていました。それに私も妙に納得してしまったのでした。
 魅惑的な香りを放つ、花びらのように薄くスライスしたベージュのトリュフは高貴な森の宝石そのものです。作曲家兼料理人だったかのロッシーニが白トリュフを「きのこのモーツァルト」と言い表したそうですが、さすが音楽家らしいぴったりなネーミングです。こんな高価な白トリュフをどんなメニューに使うのだろうと興味津々でしたが、大晦日の一人2000ユーロ(28万円!)のディナーと聞いて、再び驚いたのは言うまでもありません。白トリュフの香りを感じると、いつもこの出来事を想い出すのです。
 私はカトリック教徒ではないけれど、パリでのクリスマス・イブは、住んでいたアパートのすぐそばにあったノートルダム寺院のミサに行くのが習慣でした。リッツのレストランでディナーのサービスを終え、イブが終わろうとするころに到着すると、寺院の前には遠目にもわかるほどの長蛇の列。まるで初詣のような人出です。凍えるような寒さの中、ようやく寺院に入ると、中ではパイプオルガンの音が流れています。石造りのひんやりした教会の香りと、無数にゆれるロウソクのゆらめきの中、昔過ごしたケルンの、大聖堂での記憶へと、私は連れて行かれました。
 ドイツ西部、オランダ国境近くの街ケルンには、建設に600年を要した、街のシンボルともいえる大聖堂があります。この街に2年ほど住んでいた私は、あるとき、この大聖堂でコンサートをする機会に恵まれました。教会音楽から生まれてきたともいえる西洋音楽は教会がルーツのようなものです。石造りで荘厳なケルン大聖堂でパイプオルガンの音色に包まれたときから、私はここで演奏したいと思い続けていました。コンサートは12月のクリスマス直前で、例年になく寒い冬でした。大聖堂の中は会話が凍るほど冷え切っています。ストーブらしきものはありますが、気休め程度にしか感じられず、オーケストラのメンバーが「必ずセーターとコートを持って来い」と言った理由がようやく分かってきました。
 ドイツの冬の寒さを甘くみていました。石造りの大聖堂は恐ろしく寒い!リハーサルの間、足も指もどんどんと冷えていきます。周りを見ると、全員コートやマフラーでぐるぐる巻き。とてもコンサートをやるようには見えません。寒さに震えながらリハーサルを終えると、皆でなぜか、もっと寒い外に向かって行きます。「一緒についておいで」というので行って見ると、そこは大聖堂のすぐ横にある広場。クリスマス市の真っ只中でした。なんと皆はコンサート前だというのに、そこでホカホカのグリューワインを飲んでいました。私は、ドイツ人のおじさんたちのように、ビールを水がわりにするほどアルコールに強くありません。最初はお誘いを丁重にお断りしましたが、有無を言わさぬ勢いで渡されたので仕方なく飲んでみると・・・フルーツの甘い香りとあったかいワインのいい香りと共に、体が芯からポカポカしてくるではありませんか!あまりの寒さに、酔いも感じず、コンサートが始まるころにはすっかり体が温まっていました。演奏者も観客も、ほんのちょっぴり甘い香りをさせながら・・・。 「香りの記憶」によって過去に連れて行かれた私は、ノートルダムの鐘の音で再びパリへと呼び戻され、寺院を後にする頃には、雪が降り始めていました。パリでは珍しく雪が積もる気配です。「雪景色の朝はどんな香りがするだろう」。パリのオレンジ色の街灯の下、うっすら石畳につもった雪に映る自分の影と一緒に、家路へと急いだのでした。